“もし、あなたの配偶者が誰が見てもすばらしい人間であり、周囲の人々がそれをほめそやすとしたら、そのことは「人が羨望するような財を手に入れた」という満足感はもたらすかもしれないけれど、「だから、どんなことがあっても私は生きなければならない」という使命感はもたらさない。
もし、あなたが真に人間的な人であったとしたら、「人が羨望するような配偶者を独占していること」について、無意識的な「疚しさ」が生じるはずである。
「誰から見てもすばらしい人間」を私的に占有することについての「罪の意識」は、人間が共同的な生き物である限り、必ず生ぜずにはいない。
その行動は、どこかで「この人は他者たちと共有されるべきである」という不条理な結論にあなたを導いてゆく。そして、あなたは配偶者を、気づかないうちに、「なかなか家に居着かない」方向に押し出すようになる。
つまり、「誰が見てもすばらしい、みんなが羨む配偶者」を得た人間は、その代償として、「私がいなくても、この人の才能や美質は引き続き高く評価されるであろう」という確信を埋め込まれる。
それは「私は存在しなくてもいいのだ」というアイデンティティの危機を遂行的な結論として呼び込むことになるのである。
それゆえ、古来、配偶者の選択については、「できることなら、誰も羨まない人間を選ぶ方が無難である」ということがひそかな人類学的ルールとなっているのである。
もちろん、そのようなことは決して公言されない。
「どうして私と結婚したの?」
「だって、キミのことを誰も愛していないからさ!」
というような会話の帰結は明らかであろう。
これは「だって、キミのすばらしさを理解しているのは世界でボクひとりだからさ!」と言わねばならない。
そして、この二つの言葉は実は同じ意味なのである。
話はこれでは終わらない。
いまなかなか結婚できない方々が30代40代に多いが、その理由は彼らが「適切な配偶者についての一般的基準」というものがありうると考えているからである。
これはたいへんに問題の多い性イデオロギーである。
上で述べたように、「適切な配偶者についての一般的基準」というものがあるということは、この基準に照らしてランキングが高い異性は、すでにその条件によって、「あなたがその人の配偶者である必然性はない」ということになるからである。
多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの「替え」はいくらでもいる、ということである。
誰でも自分と「代替可能」であるという自己認識がひとを幸福にすることはありえない。
しかし、私たちの社会は挙げてこの「人間的価値の数値的・外形的表示」に狂乱している。
それがどれほど致命的に私たちの自尊感情と自己愛を損なっているか、それについて私たちはもう少し真剣に考慮した方がよい。”
— the idiot act (via gbender)
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October 26, 2009, 9:44pm Comments